大阪湾に注ぐ淀川の河口あたりにいくつかの集落がある。
この川は昔から、百年に一度くらいのペースで決壊してきた。
そのたびに周辺の土地は洗い流された。
人々は住み着いては離れ、住み着いては離れを繰り返していた。
そのおかげで、特に誰もこの土地の所有権で揉めるようなことはなかった。
第二次世界大戦の時には、大阪湾全域の空襲によって、この土地も焼け野原になった。
そしてそのあと、河原に少しずつ人がやってきた。
河で魚を釣るもの、それらをさばくもの、売るもの、料理にするもの。
そのための道具を売るもの、住み着いた人びとの生活雑貨を売るもの。
少しずつ人が集まり、それぞれの暮らしを始めていった。
八百屋、床屋、雑貨屋、豆腐屋、酒屋、和菓子屋、駄菓子屋、電気屋。
そこで暮らす人たちが使うものを取り扱う店が佇む。
暮らしのリズムで営まれてきた、しずかな商店街。
焼け野原に住み着いた頃から暮らしてきたじいさんやばあさんは、二階建て木造の長屋が続くその商店街の中で、当時やっていた店を閉めたまま、今もゆったり暮らしている。
そんな商店街に、少しずつ若者が住み着き、それぞれの暮らしを始めた。
その中の何人かは、黙々と物づくりをしていた。
みそを仕込む。
褌や腹帯や手拭いを染める。
糸をよる。
ミシンをかける。
シェアアトリエ、共同作業所、道具の貸し借り、物と物、技と技の交換、共有。
商店街の中でつくられた様々なものとものが行き来し、人と人が交流する。
暮らしと経済と政治の線引きが曖昧になっていき、自給と自治と自営が絡み合う。
その渦中を切り取りわかちあう瓦版が、商店街をめぐる。
小さく、確かな、シェアと、拡散。
商店街の一角にある、瓦版をつくるために集まっていたゆるやかな集会場のようなスペースは、誰でも無料(人によっては投げ銭をしていく)でお茶が飲める茶房のようになっていった。
ここに集まる老若男女が持ち寄る情報は、手作りの印刷物になって配られる。
おもに地域の若者たちが、そんな瓦版をおじいやおばあの家に一軒一軒届けていく。
やわらかな会話が商店街のあちこちではずむひとときが続いている。
春のお楽しみは摘み菜の会。
みなで河原を歩いて、せりやナズナ、蓬や蕗や野えんどうを摘み、茶房に集って炊き込みご飯にみそ汁に白和えにおひたしにサラダを楽しむ。
たくさんつくって、近所にどっさりおすそ分け。
いつの時からか、若者たちが藍の芽が出たプランターや鉢植えを、商店街で配って回るようになった。
青葉が広がってきた夏のなかば、藍の生葉染めがさかんに始まる。
商店街ののれんのいくつかが、藍染めにたなびく。藍染めの子ども服、肌着、手拭いが年々ふえていく。
河原の一角にも藍の群落が発見され、大量に採ったそれらの藍の葉は、染めを営む商店街住人によって発酵に成功している。
なお、河原に誰かが種を蒔いたのか、商店街中に広がる藍の中の種の幾つかが、鳥か風かなにかによって運ばれたのか、については真相が明らかになっていない。
夏がおわりに近づくと、各家々の軒先には竹で編んだカゴで梅が干されている。
商店街の中で大量に作られる梅干しの中の幾つかは、梅醤番茶や梅干しの黒焼きになり、配られたり、茶房でふるまわれたりしている。
秋になると、それまで大豆畑の世話などで忙しかった若者たちが中心になって、集会場や茶房、小学校の校庭や公園や駅前で、みそ汁の炊き出しとふるまいが頻繁におこなわれるようになる。
大量につくられたみそ汁は、炊き出しの後に商店街で暮らす高齢者の一軒一軒に直接配られている。
あたたかい会話が商店街のあちこちでかもされるひとときが続いている。
商店街の中にある糀屋のふるまいで、大晦日には除夜の鐘を鳴らすお寺で大量のみそ汁の炊き出しがおこなわれる。
そして年が明けて初詣の参拝客が集まる地域の産土神社では、同じ糀屋のつくった甘酒がふるまわれる。
地域の糀が醸す神仏習合の年越し。
河原が見える商店街を微生物たちが漂い続けている。
今も、これからも。